珍妃の井戸 (講談社文庫)
名著「蒼穹の昴」の登場人物の多くがそのまま登場してくるので、その続編とも言えるが、時代小説というよりは推理小説のタッチになっている点で前作とは異なる。それなりに面白いのだが、前作の印象が強すぎるせいか個人的な評価は平均的。
紫禁城 MD 【メガドライブ】
端的に言えば倉庫番の亜流。面のゴールである扉を目指すべく、自機を操作して同じ数字の牌と牌を消していく。ただし押すことはできても引くことはできない。面数は100に加え裏面のもう100が存在し、こっちが白熱。前者はいくらでも解読法があったが後者はガチガチの攻略が要求され、一切のムダが許されない。大袈裟だが筆者はこの作品から人生哲学を学んだ。どうやって手をつけていいかわからない物事でも取り組んでいるうちに解決の糸口が見えたり、固定観念ゆえに前に進めなくなった時、逆転の発想で打開した・・・などなど。(以下、次ページ)
完訳 紫禁城の黄昏(上) (祥伝社黄金文庫)
著者は、清国ラストエンペラー「宣統帝溥儀(せんとうてい・ふぎ)」の外国人教師を勤めたスコットランド人。原著は歴史的な一級資料である。現代文での邦訳は岩波文庫に収められた。だが、岩波文庫版は序章が虫食いのように省略され、第一章から第十章までと第十六章が訳されずに出版された(一九八九年)。そこには何が書かれていたのか?岩波書店にとって何か不都合があったのか?
一九一一年に清王朝が滅亡。一九二四年、前皇帝「溥儀」は乱暴な扱いを受け紫禁城から追放される。急進的な支那人は煽動した。処刑を!と。ジョンストンは安全のため、前皇帝を外国公使館区域に避難させる。受け入れたのが日本公使館だった。それ以来、日本は執拗に非難攻撃される。支那大陸を侵略するための狡猾な策略の結果だ、と。しかし、当時の芳沢公使は前皇帝が公使館区域に到着することすら知らなかった。ジョンストンが熱心に懇願したからこそ、前皇帝を手厚く保護することに同意したのだった。
清国は満州族の王朝である。一六四三年に北京に入城し、満州と支那はいわば「結婚」をした。持参品が満州だった。今や支那との結婚が破綻。追放された満州族は持参品である祖国に帰る権利を当然持っていた。満州人、蒙古人の中には、満州独立運動の支持者がいた。一九二八年には先祖の墓が支那人により破壊され陵辱された。前皇帝は決意する。日本の力を利用し祖国満州に帰ろう。日本にとっても、当時の満州は排日侮日運動のため在留邦人の安全と権益を確保することが非常に難しかった。両者の利害が一致した。その結果として一九三一年に満州事変が起こった。翌年の満州国建国に至る。
ジョンストンの原著には以上のようなことが書かれていた。平和で争いのない支那大陸に突然残虐な日本軍が来襲した。こうした中国共産党や日本左翼による宣伝は真っ赤な嘘のようだ。当時大陸では、共産主義者の謀略と殺戮、軍閥間の絶えざる戦争のため、民間人が常に危険に曝されていた。無政府状態の中で苦しんでいた。その中で前皇帝の不幸に同情を寄せたのがジョンストンらと日本公使館だった。人道的措置だった。満州事変は一概に日本の侵略とは言えないと主張する人々がいる。本著がその根拠となる。中華人民共和国が建前とする反日抗日の歴史が見事に覆ってしまう本だ。岩波書店が意図的に省略した部分には、日本人に知って欲しくない歴史的事実が書き綴られていたのだった。
プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」 [DVD]
すでにビデオ、LDで発売されていた87年のMETライブ公演ですが、お手頃で保存しやすいDVDということも含めてお奨めです。
ゼッフレッリの色彩重視の豪華な舞台が楽しめること、ドミンゴの歌声がまだ輝きを失っていないこと(因みに小生は3大テナーは何れも70年代後半から80年代前半に聞くべき歌手で、ドミンゴは芸の巧さを含めて総合力でいまも人気を保っており現在のCDでは聞く価値がないと思っております)、マルトンが全盛期にあること(昨年の舞台は無残でした・・・。「国技館」系でないことも貴重)、リューのレオーナ・ミッチェルが素晴らしいことからこの曲のお奨めNo.1です。減点はレヴァイン&METの演奏がやや粗い(このオケはよくも悪くもアメリカ的で迫力はあるが繊細さに欠ける)から!!。
なお、歌唱重視の方は音源は古いのですが、コレッリがカラフを歌ったCD(トゥーランドットがビルギット・ニルソン、リューがレナータ・スコット)がいいですよ。
紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)
もうはるか昔の本です。ずっと絶版でした。古本でもなかなか手に入らず切歯扼腕していました。
文庫版で復刊されるとは、ありがたいのとちょっと驚きました。
内容的には決して一般受けするものではないからです。
中国史というとすぐに「三国志」(演義の方です。つまり講談話。)を中国史と思っている人が多いので。
またちょっと詳しい人でも、中国にあった歴代王朝(実際には現在の中華人民共和国の範囲は中国ではなかった。)を、
漢民族の立場、つまり四書五経から史記二十四史からしかとらえていない人が多いのです。
歴代王朝の大半は現在の漢民族がいう「漢民族」の王朝ではありませんが、
その視点が全くほとんどの中国史研究者から抜けています。
大体が「始皇帝」でさえ、当時の概念では「漢民族」なのかどうか?
元来、中国といわれる地理的範囲にできた王朝は、常に北方遊牧民との関係を無視しては語れないものです。
それがこの本では、明確に且つわかりやすく書かれています。
中国史を少しかじった程度では知らないことばかりでしょうし、私も岡田先生やその研究グループに恩師がいたために知ったことです。
だから従来からの、漢民族のみの視点から書かれた歴史は、「羊頭狗肉」と思っています。
伝聞ですが某有名大学の方が、明代のモンゴル人について論文を書かれたそうですが、岡田先生がこてんぱんに批判したそうです。
明代でも「元」はちゃんと存在していたからです。
これは現在でも「漢民族」だけが偉かったということかな?という論文、政治的発言等々、
またノンフィクションでも小説などに、その視点を感じることがあるので、
「少しはこの本読んで勉強してください。」と言いたいです。