灘校・伝説の国語授業 本物の思考力が身につくスロ-リ-ディング
薄い文庫本を3年かけて読み解く。こんな授業をやろうと思った背景には,「自分が中学生だったとき国語の授業で何を教わったのだろうか?」という自問がありました。私は,この自問に対して何も答えられないことに,愕然としたのです。生半可なことでは,生徒の心に何も残すことができない。何かひとつでもいいから,子供たちの心に生涯残るような授業をしたい---。この想いの末にたどり着いたのが,この方法でした。
橋本先生はこうおっしゃる。先生の考えを一言にまとめれば,カバーに書かれている次の言葉に集約される。
「自分で興味を持ち,得た知識は一生忘れられない宝物となる」
さて,この本はというと,この命題の“裏”が正しいことを皮肉にも示しているように思う。つまり「自分で興味を持たぬまま与えられた知識はつまらない」。いくらすばらしい内容が盛り沢山でも,情報がただ羅列されているだけでは,決して宝物にはならない。橋本先生の授業が持つ(と思われる)わくわく感,ライブ感が削ぎ落とされているせいだろう,情報としてはおもしろいところもあったけど,授業の魅力が伝わる構成にはなっていない。
奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたちのほうが,より先生の授業の魅力を感じられるように思う。併せて読んでみられることをお勧めします。
ただたけだけコンサート vol.1 in 京都 [邦人合唱曲選集]
現在のコンクール主体の複雑難解な曲採用に疑問を持っていた私にとっては、伊東氏指揮なにコラの大胆なチャレンジをおおいに歓迎したいと思います。というのも、ひところは「ただたけ」は「何を唱っても『ただたけ』になる、簡単なメロディーライン。」と片付けられていたからです。
しかし、音域の狭い男声合唱において、そのダイナミズムを出すことに腐心した清水脩氏(多田氏の恩師)の「おおいなる言いつけ」をある意味愚直にも守り続けた結果、現在までの作品群ができあがったのは事実だと思う。なので、多田氏は男声合唱の最大の理解者であり、そのために曲を作り続けてきたことを考えれば、なにコラの大いなる試みは実は男声合唱の本道を大手を振って歩むものなのかもしれない。
問題は、その「ただたけ」については北村協一先生と、その指導による関西学院大学等の名演が過去にあったがため、何かと比較されることではないでしょうか? 私なりの結論を申し上げれば、敢えてかどうかはわからないけれど、ダウンテンポにして日本語の響きをレガート唱法でまとめることには成功したものの、組曲全体のメリハリに欠けてしまった面はあるのではないかと思います。特に「わがふる」を学生時代に北村先生から指導を受けた体験のある私にとっては、全体にベタっとした感じに聞こえてしまいました。
今後は「草野心平の詩から」 等も唱ってほしいと思います。
提婆達多(でーばだった) (岩波文庫 緑 51-5)
諸説はあるようですが、ダイバダッタというのは、インド王族の生まれで釈尊(ブッダ)の従兄、釈尊十大弟子の一人アナンダの兄弟です。
青年時代ヤショダラ妃を巡っての戦いに敗れたこともあり、釈尊に対して終生強い対抗意識を持ち続け、王子の身分を捨て一旦は釈尊の弟子となりますが、後に反逆して種々の迫害を加えたと言われています(迫害の程度や動機にはやはり諸説あるようです)。
本書は、そんなダイバダッタを通して、人間の傲慢や愚かさ、畏敬と厭悪が同居する矛盾した人間の心や葛藤を描きだした作品です。また本版には和辻哲郎さんと荒松雄さんの解説が載っていますが、作中での釈尊の存在感について等、読後の感想に相違点があって面白いです。
当たり前ですけれど、古代インドの資料に当たって執筆されているとはいえ、本作は完全なノンフィクションではなく、作者の中さんが、自分の伝えたいことをしっかりと表現するために加えた創作部分も混じっています。
ダイバダッタは決して善人ではありませんが、正直さを好む性向があったり、誠実な愛には心を動かしたりすることもあり、完全な悪人でもありません。
彼は、我独り尊しという気持ちがあって自分自身を誰よりも重んじ、他人を卑しみ軽んじていて、相手を心から尊敬することのできない我慢偏執の生命が強い人間といえます。
時折何かの縁に触れて善の生命状態になることもありますが、基本的な生命境涯が三悪(地獄・餓鬼・畜生界)または四趣(三悪に<他に勝ろうとする生命状態>である修羅界を加えた境涯範囲)、六道(四趣に更に人界、天界の境涯を加えたもの)の間を輪廻する、未熟で弱い人間です。
自分を謙虚に省み、他者と対等に交わったり教えを乞うことができず、また迸る自己の感情や欲望の奴隷となり知足することができない。他者と自分を比べ、競い、順列をつけずにいられない彼は、常に乾き、飢え、不安、憤懣を抱えている。自覚のない自分の弱さにもろに苦しんでいる、人間臭いといえば真に人間臭い人物です。本作最後の一文は、そんな彼の生命は、私達の中にも存在するということを思わせられ、謙虚な気持ちになります。
他のレヴュアーさんが言及されている『バラバ』を私も読みましたが、信仰と人間というテーマをより深くリアルに、切実に彫りこんであるのは、個人的には『バラバ』だと思います(キリスト教と仏教の宗教性の違いが出ているのかもしれません)。本書はもっと「人間」そのものを描くことに力点が置かれているという感じを受けました。文体も、前者はシンプルで力強いですが、本書はなめらかでしっとりとした感触です。
最後に、ダイバダッタは、釈尊最晩年の教えであり<諸教の王>と呼び習わされる『法華経』では、成仏の記別が与えられ救われています(<悪人成仏>と言います。ちなみに『法華経』以前の経典では救われません)。
キリストも「他人を裁くな。汝が裁かれざるためなり」と言っていますが、作中で、人間の弱さを許さない怒りの仏であったダイバダッタから民衆の気持ちが離れ、人間の弱さを受け入れる慈悲に満ちた釈尊が慕われたように、我々人間には、ありのままの自分を認めてくれる大きな<理解と受容の懐>、<励ましと蘇生の泉>こそが必要なのだと思います(勿論仏には、成長のために欠点や誤りを指摘してくれるような厳愛の一面もまた、必要です。気休めや甘えは結局相手の為にならないのですから。行為の根底が慈悲であるのかどうかが問題なのですね。難しいことです)。
奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち
速読の無料体験に行ったとき、できればいいなと思ったが、魅力を感じなかった。
本に限らず、いろんな細かいことにひっかかり、「どういうことやろう?」「この人はどんな人?」とつい興味が横道にそれてしまう自分だからだ。
学生時代も、どうしても受験勉強を楽しめなかった。無味乾燥な知識の注入を体が拒絶してのだと思う。
この本の主人公、橋本先生は、あっちこっちに興味が行きがちな多感な中高生に正対し、「銀の匙」という本を土台にして、子ども達とともに本の内容を追体験し、自由に思考や表現の授業を展開した。
私の思い描いていた教師像を体現した人だと感じた。
わたしは、高度経済成長とともに青少年期を過ごしてきたので、きっと合理化、効率化が骨身に染みてしまっているのだと思う。はやく役立つ情報と技術を身につけることを、何の疑いもなく追いかけてきたのかもしれない。しかし、心労から休むことを余儀なくされたことをきっかけに、この本と出会うことになった。自分が疲れてしまった原因と、そして、立ち上がる希望をこの本から学べたと思う。
すぐ役立つことはすぐ役立たなくなる
この橋本先生の哲学が、「銀の匙」の授業を通して教え子達に受け継がれ、各界で困難な状況を打開する原動力となっている。わたしも、もう一度、本当の学びを起こしていこうと思う。
日本合唱曲全集 多田武彦作品集
混声合唱を20年以上続けてきました。大の多田武彦ファンで、多田氏の楽譜・CD・レコードも沢山収集してきました。昨年は、多田氏の指揮で「柳河」を歌い、感激した思い出を持っています。
このCDは、多田武彦の20代から30代にかけて生み出された男声合唱組曲の名曲を集めた物です。録音年代にばらつきがありますが、日本を代表する名指揮者と実力あるグリークラブの演奏ですので悪いはずはありません。お手本のような演奏ばかりです。
24歳の時に作曲した『柳河風俗詩』は、日本の男声合唱組曲を代表する曲です。師事していた清水脩の元で、作曲の勉強のためのエチュードとして作曲された作品です。後の多田氏の作風とエッセンスがその4曲全てに表れているように思います。
北原白秋が、古里「柳河」に対して、郷愁たっぷりに描いた一連の詩がとても親しみやすく、白秋特有の不思議な世界がそこに描かれています。
多田氏の全作品に共通することですが、そのモティーフとなる詩の選定からして的確で、情景がはっきりとわかる素晴らしい詩ばかりを選んでおられます。長い間、多くの人に愛唱されるためには、曲だけでなく、「詩」の存在の意味を忘れてはいけないと思います。
冒頭の印象的な男声ユニゾンの呼びかけからして個性的です。全編を通してノスタルジックで、悲しげで、日本情緒もたっぷりと含まれています。至極簡単なのに、味わいぶかい仕上がりになっているところが愛唱される所以でしょう。男声合唱特有の部厚い密集和音の縦割りのハーモニーです。
当時、多田氏は、作曲するためにオルガンを使っておられたというお話を聞いたことがありますが、まさしく、オルガンの響きです。ラストの郷愁を誘う終わり方も印象的な名曲です。
他の組曲もどれも大好きで、多くの「タダタケ」ファンにとっては必携のCDでしょう。