生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集
例の発禁小説を読んでから私は本書に手を出しました。
だから、彼の言葉に潜む、非常に素直ではない、様々なものを感じました。
それは、右翼に追われる恐怖であったり、長編小説に挑んでも書けなかった自身の小説家としてのある種の才能の無さの嘆きです。
彼はそれらを包み隠そうとしています。
だけれども、ある程度現代に生きて苦労した人にはそれがあっさりと分かると私は思います。
そしてそこから導きだされるのは、やはり、「嘘」や「取り繕い」の大切さです。
私は彼を通して、それを学びました。
彼のような、「正直に思う事」を書いて、殺されそうになり、
その挙げ句に掴んだこういう「虚勢」的なものは、私にとって実に深いものでした。
深沢七郎外伝―淋しいって痛快なんだ
深沢さんはインテリぶった編集者を殆ど嫌い、無視してた様です。
著者は一応拒絶されなかった様です。
(白石女史や深沢が認めた先輩編集者と随行してたからかもしれませんが)
深沢さんと“生活”した、立松(ラブミ、、)や嵐山(桃仙、、)の著作
から出る迫力は感じませんでした。
死後の関連情報がそれなりに有りますが、それを知ってドーと云う程では有りませんでした。
でも、“実際に”深沢に好かれた人々の遣り取りが数箇所あって、そこは心に残りました。
図書館で一読されても損は無いと思います。
楢山節考 (新潮文庫)
母親(認知症)の介護を始めて、日本史は「介護」という事象、観念を持つのかと思い、答えを求める資料として読んだ。面白かった。
作品には親として(母親)子を思う情が描かれているが、私の母は息子(私)が分らない。日常生活は「見守り」をすればおくれている。が、親子の情は通じていない。うらやましい。
現代では作品のように親を捨てに行かず、思い余って殺してしまう。比べるのは変だが作品の時代の方が、生(死)を重々しく受けとめている。
現在私は疑似親子関係を生きている。バーチャルな親子関係だ。そのうち私は認知症の母親に向かって「うちの母親がぼけてさー」と話しかけるだろう。そしたら母は決まって「そおかな、大変じゃなあ。一度会ってみたいねその人に」と言うだろう。
認知症の母を山へはよう捨てん。母親のたっての願いなら、地域の暗黙の了解が有るのなら、それでもよう捨てん。「もおええわ。歩いて行くわ」と正気の母なら言いそうだが。
楢山節考恐るべし。実に最後があっけない。淡々として終わる。それがこの行為を正常だと証明している。
楢山節考 [DVD]
両親は長野県出身です。幼い頃から山に囲まれた父の故郷に行くたび、そこから言い様のないエネルギーと圧迫感を感じ、恐ろしさに震えました。
あの深い森山のなかに、今でも鬼はいる、そう感じます。
信州(長野県)には鬼無里という地名があります。お蕎麦の名産地としても有名です。
地名の由来は天武天皇の御世、信濃遷都を山を置いて(!)邪魔した鬼を討伐させたところからきているそうです。
又、やはりこの地域には「紅葉(もみじ)」伝説というのもあります。能の「紅葉狩」にもあるように、通りかかった旅人を美女が手厚くもてなし、夜になると鬼の正体を現し食らってしまう。能ではその鬼も退治されてしまうのですが、別の「紅葉伝説」では、女は魑魅魍魎の類ではなく、村人に恩恵を与えた巫女として、敬われ手厚く奉られています。
カンヌでグランプリを獲った秀作「楢山節考」、70になると、人減らしのために老人は山へ行きます。死への旅です。海外の人には、日本がほんの数百年前にはこんなに貧しい地域で、このようにしなくては生きていけない過酷な現実だったという事も大きく衝撃を与えたようです。信州には「おばすて」という地名も残っています。
人々は生きるため、食べ物を盗んだ人を見せしめとしてなぶり殺し、きまりにより親までも捨てなくてはなりません。まさに心を「鬼」にしなくては生きていけないのです。
そんな心の闇が長野のみならず、日本全国に多くの「鬼伝説」を生んだのかもしれません。