ベスト・オブ・ジャック・ブレル
「私は行く」という意味ながら「孤独への道」という曲名をつけられた「J’ARRIVE]というタイトルのアルバムがある。
その曲はこのアルバムでは聴く事ができないのだがみなさんに他の曲も聴いてもらいたく僭越ながら私の解説を通して
もっとJ.ブレルに導けたらと思う。
〜「孤独」- ジャック ブレル〜
訳: 蘆原英了
菊から菊まで
二人の友情は大切だ
菊から菊まで
死の絞首台が二人のドラマ
菊から菊まで
他の花はそれぞれに咲き
菊から菊まで
男も泣く、女も泣く
僕はそこへ行く、そこへ行く
でも僕はもう一度何を愛せよう
骨を太陽に
夏に、春に、あしたにさらす
でも僕はもう一度何を愛せよう
河が河であることを見とどけ
港が港であることを見とどけ
僕をそこに見いだす
僕はそこに行く、そこに行く
でも、どうして今
どうして、そしてどこへ
僕はとにかくそこへ行く
でも、僕は今までただそこへ行っただけだった
菊から菊まで
そのたびに孤独になる
菊から菊まで
そのたびに何かがあまる
僕はそこへ行く、そこへ行く
でも、僕はもう一度何を愛せよう
汽車に乗るように恋を得ること
もっと孤独で遠くへ行くために
安心するために
僕はそこへ行く、そこへ行く
でも僕はもう一度何を愛せよう
まだふるえてる君の罠に落ちること
そして恋に灼かれ斃れ
心が灰になる
僕はそこへ行く、そこへ行く
君が早めに着いたのではなく
僕が遅かったのだ
僕はとにかくそこへ行く
でも僕は今までただ
そこへ行っただけだった
蘆原英了;父蘆原信之と 母藤田きくとの間に生まれる。母きくの長兄はベルエポック時代パリに活躍した画家藤田嗣治。
父の次兄嗣雄はあの日露戦争を勝利へと導いたカミソリと呼ばれた大軍師児玉源太郎の娘と結婚している。
伯父、嗣治を頼って早くよりパリに青春時代を過ごす。青春時代をパリに過ごすといえばかの堀口大学も外交官の父親に長らく連れ添って
その”上等な”環境の中で高められていった日本語の語彙能力をフランス文学を素材として開花させて行ったのであった。
この詩は、己の”生=死”をじっと見つめ出来上がったのだろう。
この詩人ならではの極度に凝縮された孤独感が己ずとこれほどの精神的な格調の高さを獲得している。
菊は弔いに用いる花だがこれを無に置き換えると判り易い。無-生-無、という訳だ。
「でも、どうして今、どうして、そして何処へ」ーこの上なく純粋なこの詩人のイマジネーションの極みにおいて己の死と向き合って迸り出た魂の叫びである。
Jacques Brel
私は死去直後に日本で発売された全集(バークレー)と1980年代にフランスで発売されたバークレーとフィリップスの各全集(それぞれLPレコードのボックスセット)を長く愛聴しておりましたが、当コレクションの購入により、それら全てをカバーしたうえに、これまでタイトルと歌詞しか知らなかった幻の作品を含んだ、本当の意味での全集を手にすることができました。オリジナルアルバム15枚、いずれも従来の録音とは見違えるほどの音質で聴けるほか、多くのアルバムには異版等の曲が新たに追加されています。全曲歌詞付きが実に嬉しい。更に、レコードデビュー前にラジオ番組のためにギター一本で録音した28曲(後年のアルバムで聴ける曲が多い)入りのCDが(これもまた良い音質で)特典として付いていますが、まさにレアものです。自分だけが持っていたい。そんな気にさせるコレクションです。
子どもたち ドアノー写真集 (2)
ドアノーが子どものさまざまな表情をとらえた写真たち。
とってもすてきでした。
創造的に遊ぶ子どもたちをとらえた写真など、眺めているだけで時が経つのを忘れさせてくれます。
フィオリーナ
なんでも50年代から活躍しているらしいジャン・コルティですが、ソロ名義の作品は2001年の"Couka"が初めてで、このとき既に齢72歳。可愛らしいジャケット・デザインと「72歳のデビュー作」というのに敬意を表してデビュー作を買ったんですが、軽やかで美しいアコーディオンの音にすっかりはまってしまいました。
それから不謹慎ながら毎回「これが遺作か?」と思いながら聴き続けています。今回はわずか2年のインターバルで届けられた3作目。御大は80歳になったそうです。ジャケットのデザインが前2作品のような可愛らしいイラストでなくなり、またデジパックから通常のケースになったのが残念です。内容は、インストものが中心だった前2作品と異なり、ゲスト・ヴォーカルを迎えた歌ものが大半。歌伴をやってた人だから当然と言えばそうなんでしょうが、慣れたスタイルなんでしょう。ジャズ風のインストなどが無くなった分、この3作目が断然聴きやすいです。
アルバムは基本的にアコーディオンにウッド・ベースと生ギターを加えた編成で、歌がそれに乗ってて、時々マンドリンやらちょとした楽器が入る程度。一発録りらしいです。そんな録音だからしょうがないですが、歌にしても音楽にしてもミス・トーンが結構あります。こんな音楽は雰囲気一発で聴くもんでしょうし、細かいことを言うのは野暮なのかもしれませんが、それにしても・・・。「歌ものが多くて聴きやすい」と言った舌の根も乾かぬうちに言うのもアレですが、オーソドックスなミュゼットのスタイルでやってる10や15などのインストが結局一番気に入りました。
今回は日本盤のみのボーナス・トラックはなかったんですが、ジャケ記載の「ジャン・コルティの語るアコーディオン人生」の仏語和訳が読めるのはありがたいです。
Adieux a L'Olympia Amaray Version [DVD] [Import]
それは、'66年8月21日の事であった。ヴィッテルのホテルで、ブレルは、フランソワ・ローベールとジェラール・ジュアネストに、ステージから引退する旨を告げた。既に、ハード・スケジュールも度を過ぎた状態で、しかも、連日同じ事の繰り返し。これ以上続ける事は、観客も自分自身をも欺く事になる。何より、彼は疲れ切っていた。行き詰っていた。
10月6日から11月1日まで、ブレルは、最後のオランピアのステージに立つ(2番手スターはミシェル・デルペッシュだった)。実際には、この終演後も契約の関係で250回もステージに立った('68年の「ラ・マンチャの男」は除く)というが、オランピアのステージは本当にこれが最後である。
歌われた曲は全部で15曲。'61年も'64年も同じく15曲。それ以上は無い。ブレルはアンコールをしない事でも有名だったと言われている。しかし、今回は、追加で歌う事はやはり無いとしても、カーテンコールに幾度も応え、最後はガウン姿で挨拶するところまでフィルムに収められている。
「15年間の愛は証明されました。その事に感謝します。」
この短いコメントも、ブレルらしいというか、彼が好んだ「格言的」な言い回しである。そして、観客からも一斉に「メルスィー」の声が上がる。まさに、「記念碑的」というか、「伝説的」という言葉がこれほど似合うフィルムも滅多にないだろう。通常のライヴ録音ではなくフィルム撮影にしたのは、やはりその「価値」ゆえであろうが、そのためにわれわれ日本人にとっては、かなりの長期に渡って不便を強いられた。現在でも「一般的」とは言い難い(JVCのDVDプレイヤーはPAL対応の上安いが、それよりも、これほどの作品がこれまで日本で商品化された事が1度も無いことの方が納得いかない)。
最初の曲は、新作の「le cheval(馬)」。ブレルが舞台に駆け込んで来る。評論家の大野修平さんの著書によれば、ブレルの次女、フランスさんが来日した際、「父は、とても(ステージが)怖かったのです。だから走って入ったのです。」という話をしてくれたとの事である。確かに、'71年のクノックでのインタヴュー「Brel parle」でも、彼は、「いつも、舞台に上がる直前になると吐いていた。怖かったのだ。」と言っていた。しかし、演奏が始まると「さすが」の一言に尽きる。レコードでしかブレルを知らない人が見るとさぞ驚く事だろうが、彼は雄弁なその両手、時には全身で歌を表現する。皮肉たっぷりの表現は、いささか品が無いようにも見えるかも知れないが、これこそブレルの芸風(芦原英了さんによると、ダミアもステージではこんな感じだったという)である。昔ながらの「エンターテイナー」風でもある。
「les vieux(老夫婦)」('63)は、テンポをさらに落とし、ゆっくりとした老夫婦の生活を極限までリアルに描ききっている。「ces gens-la(あの人たち)」('65)も同様で、まるで天才画家の筆を見る様な感覚だ。「Amsterdam(アムステルダム)」('64)は、'64年のオランピア・ライヴ盤(公式録音)を優に超える絶唱。この映像は、2005年の「愛・地球博」で、ベルギー館の映像展示でも使われたほどだ。
「les bonbons 67(ボンボン67)」もこのステージでの発表。「ブリュッセルなまりも取れた。なまってるのは、テレビに出てるブレルぐらいなもんさ」と歌うが、「僕は叫びながら行進する。ヴェトナムに平和を! とね。」と、当時の情勢も思い出させる。「Jef(ジェフ)」('64)は、友人を励ましている自分も、実は以前ほど「幸福」な身ではない、という設定を思い出させてくれる。「au suivant(さあ続け)」('64)での恐ろしいまでの形相も、歌の内容を思い出せば、誰もが納得のはず。「le plat pays(平野の国)」('61-'62,注:レコード発売の前年のライヴ録音から、未発表の朗唱版が発見されたため-'98年)は、毎回、丁寧に、優しさを込めて歌われている。そして、ラストは、「Madeleine(マドレーヌ)」('61-'62)が定位置となった。明るく、開かれた終わり方だ。こうして、約50分のプログラムは終わり、「quand on n'a que l'amour(愛しかないとき)」('56)のインストゥルメンタルが流れる。「本当にこれが最後」という感じがしてきて、厳粛な気分にさせられる。何にしても、このライヴは「パーフェクト」である。
追記:当映像は、10月28、29日のテイク。この後、11月10日のテレビ番組(「Palmares des chansons」)でも10曲歌っており、商品化もされているが、声は若干疲れているようにも思える。
「私が最も安心して歌えるのがオランピア劇場だ」というコメントもある。
現在のオランピアは'97年11月に新装オープンとなり、音響も格段に良くなったようである('80年代には、アーティストに敬遠される憂き目もあったという)。先述の大野修平さんによれば、改装工事中は、鉄板にブレルらのイラストが描かれ、「le quartier du talent(逸材の街)」と書かれた看板もあった。当時の支配人の話によると、館内でブレルらの気配を感じることもあったのだという。彼らは、この劇場を守っているのだろうか...。(当時の新星堂の広報誌、および大野さんの編集発行誌「ca gaze」より)あまりにも感動的な話だったのでここで紹介させて頂く。