Fahrenheit Fair Enough
いまは良い時代ですね。
ネットでこんなレアな名盤を簡単に手に入れられて。
彼らは知名度がとても低いですが、Boards of CanadaやPrefuse 73
が評価される今、Telefon Tel Avivがいつブレイクしても
おかしくない。
丁寧な打ち込みと生音のバランス、洗練されたメロディー
複雑なことをさらっとやってのけるが嫌味がないCliq hop electoronica。
US西海岸の海沿いのCafeあたりで朝食を食べながら聞きたい。
Map of What Is Effortless
傑作1stとの大きな方向性の違いが
賛否両論を呼んでいるエレクトロニカ・デュオの2nd。
元ハードコアバンドのフロントマンだったチャーリー・クーパーと
ベッドルーム音楽オタクのジョシュア・ユースティスによるユニット。
雑誌のインタビュー(ロッキング・オン)で
普通に曲を書いて組み立て、
オーケストラとヴォーカルを呼んで
エレクトロニック・サウンドの隙間を埋めてみたかった。
と述べているように、2ndでの大きな変化は
アーティストの強い意向によるものだ。
ドラマチックなオーケストレーションが導入され、
切なく官能的なヴォーカルがフューチャーされた今作が
メジャーに接近した平凡作かというと
個人的には、そうは思えない。
ラップトップ系の音に、オーガニックな音が被さり、
ヴォーカルも含めた複雑な要素が、
驚くほどなめらかに、
美しいメロディを核にロマンチックな変化をみせるサウンドは、
平凡なメジャー作品では味わえない。
歌モノとアンビエントを同居させてしまうセンスも
素晴らしいし、ノイズ使いも半端じゃない。
ソングライティング力に加えて、
驚異的なミキシング能力もあると思う。
個人的には、大好きな作品だ。
彼らは、自分たちの音楽的な核は、メロディとノスタルジア
とも述べていて、そのコンセプトを基に
今後も変化していく可能性は、大いにある。
次作は、アンビエント作品になるかも知れない。
才人の気まぐれを楽しむのも
リスナーの楽しみ方の一つだ。
g2 ( ジーツー ) 創刊号 vol.1 (講談社MOOK)
立ち読みしながら、矢野絢也さんによる『池田大作と私』の次の文章にひかれて購入をきめました。
”ともすれば、これまで池田氏については、批判的か妄信的かという両極端な視点からしか書かれて来なかったように思う。正確な歴史の記述のためにも、一九五五年に初めて会って以来、約五○年にわたって私が見てきた池田氏の「生(なま)」の人物像を記そう。”
30年近く公明党の中枢にいたかたの真摯な言葉です。また、創価学会から執拗な嫌がらせを受けた著述のあとで、こうも語っています。
”しかし、自分をこのような目に遭わせたのが間違いなく池田氏の意思、命令だと確信していても、彼を心底から恨む気になれない。恨みよりも「あの人らしいな」という気持ちが先に立ってしまうのが本当のところだ”
つづきを読めば、池田大作氏の、清濁併せのむという言葉の範囲にすらおさまらない、実像が浮かび上がってきます。”巨人”という言葉をあてはめても、まだ足りない気がします。また、”恨む気にならない”という言葉からは矢野さんの決意、自分の愛してきた、池田氏と公明党と創価学会への真の決別宣言ととることもできるのではないでしょうか。
矢野さんの文章は淀みなく、簡にして要を得ています。たんたんとした語り口から、リアリティーが作られるのです。
ただ、洗脳が解けたとかマインドコントロールという言葉をご自身にあてはめて使われているのですが、宗教という枠にとらわれず、誰しもが自らのつくったフレームでしかものをみることができません。矢野さんの場合、洗脳というより、あまりに近すぎて見えないものや当たり前すぎて表現がむずかしいことなどが、あるように感じました。
いつか、神でも悪魔でもない人間、池田大作伝がでるとしたら、矢野さんへのインタビューは、必須となるでしょう。
最後にこのMOOKについてですが、月刊現代の後続誌として「もう一度ノンフィクション雑誌をつくろう」と発刊されたとのこと。その心意気や由。
やはり、見たことのないものを見てみたいというやじうま根性と、それの情報を合理性で処理したいという人間の意識があるかぎり、文字によるノンフィクションは続いていくと思います。
ちなみに、巻末の沢木耕太郎さんによる翻訳ノンフィクションも、上上です。
VOL.1とあります。長く続いて欲しい雑誌ができました。