天平の甍 (新潮文庫)
今、奈良平城京の跡を訪ねるとそこにはただ荒涼とした草原があるばか
りである。遣唐使船で唐に渡った4人の留学僧、戒律を日本にもたらし
た鑑真の壮烈な生涯の出発と終着点がここにあったかと思うと万感満ち
てくる。「城破れて山河あり」の境地である。
歴史小説(伝奇小説は含まない)というものは「史的事実」を出発点にし
ながら「史的事実を伝える」ということには留まらず、作者の幻想のフ
ィルターを通して描かれる。この作品は登場人物に作者の余計な感情・
分析(失礼)を交えず、淡々とまるで老人が昔話をするかのように枯れた
文体で記されている。
井上靖氏の歴史小説は全てそうだが、夢中になって読み続けるうち想像
は遥かな歴史の世界に飛んでいる。井上氏の歴史小説の魅力はま''!にそ
こにあるのかもしれない。
遣唐使 (岩波新書)
本書は近年話題になった井真成の墓誌から書き起こされる。さすがにほとんど日本人が名前くらいは知っている「遣唐使」について、ロマンをかき立てながら、現時点での遣唐使に関する全体的な姿を伝えてくれる啓蒙的な一冊が本書だ。
船舶の構造、メンバー構成や航海ルート、往来した品々など話題は詳細にわたる。特に興味深いのは、遣唐使の廃止といわゆる「国風文化」の関係についてだ。是非とも読んでみて確かめられたい。
色々と一般に思われているところとといささか異なるところがあり、「あれ?」とか「学校で習ったことと少しちがうな」という感想をを抱く方も多かろうが、それこそが本書の目指すところであろう。
空海 人生の言葉
「これ書いた時の空海絶対怒ってるやん」とか、
「ただの不平不満やん」ってのが案外多かった…。
案外ネチネチした人だったのかなぁと思った。
ハッとする哲学や言葉を期待して買ったんで、
個人的には残念でした。
生きた正倉院 雅楽 [DVD]
日本人の文化とは何だろう、日本人の感性の源流とは・・・私を見つめた疑問がこのDVDで少し分かった気分です。
遠い時間に培われた日本の文化は大陸から渡来した文化と日本古来の文化が融合したもので私のルーツを知った思いです。雅楽のルーツを求め、シルクローロから敦煌、西安にまで遡り、雅楽の歴史変遷を集大成した本邦初作品ですね。
芝 祐靖氏の正倉院の復元楽器演奏と理論に圧倒されました。横須賀令子氏の墨絵アニメが何と素敵に仕上がっています。正倉院の楽面や宮内庁所蔵の管絃抄、四天王寺の聖霊会、春日若宮おん祭、伊勢神宮の悠久の舞台、五絃琵琶の調べなど古代の心が聞こえる豪華企画です。
You can’t catch me(初回限定盤)
このアルバムで、最も傑出した楽曲が菅野よう子作曲による「美しい人」だと言うのが、結局、「答え」なんじゃないかと思う。
坂本真綾は無色透明の人である。それは女優として、「何色にでも染まれる」器用さを持っているのと同時に、「何色にも染まらないピュアネス」を持っているということでもある。
そのどこかしら浮世離れしたピュアネスは、菅野よう子が描く「作り事の世界」を描くのにぴったりだった(これは逆も言える。坂本真綾の資質に、菅野よう子が描く虚構性はマッチしていた)。例えば、私たちは外国の、異なった時代の小説や映画に共感して感動する。時には人ならぬ異形の者たちにさえ、心の動きを見出してしまう。「作り事」の果てに普遍があり、「作り話」の果てに真実がある。そうした普遍や真実を描くのに、坂本真綾の無色透明さは相性が良かった。
坂本真綾はもちろん傑出したシンガーであり、表現者である。しかし私たちは菅野よう子の楽曲を通して彼女を見出したのであり、他のソングライターの作品であったら、坂本真綾が果たして見出されていたかどうか、疑わしい。それが結局、答えであるように思う。
菅野よう子は坂本真綾を染めることなく、その無色透明さ自体を尊重した。彼女の作品「奇跡の海」などは、菅野よう子とよく組む他のアーティスト、May'n やオリガであっても、むろん「上手に」歌うことは出来ただろうが、楽曲そのものが持っている「虚構的な普遍性」を表現できたのは坂本真綾だけだったと思う。私たちはそうした坂本真綾を見出し、愛したのだ。
おそらくそうした虚構性が重さになったのだろう、坂本真綾は菅野よう子以外のソングライターとも組むようになったが、自身で作詞を手掛けるようになったこともあり、また、ソングライターたちも彼女がキャラクターとして持っている虚構性、普遍性を尊重した作品作りをしたため、全体としての路線は大きくは変わらなかった。
分かりやすく言うと、坂本真綾が持っている虚構性・普遍性は、菅野よう子が押し付けたものではなく、菅野は単にそれらを活用して程度を甚だしくしただけであって、それらはもともと坂本真綾の個性の中にあったものである。だから、一見、虚構性の反対側にあるかのような、「自分探し」路線に切り替わったとしても、全体としてはそのテイストは変わらなかったのである。
しかしこのアルバムでは、坂本真綾という個性をよく理解していないソングライターが何人かいて、楽曲を提供している。坂本真綾は虚構性を内に秘めた女優であるから、赤に染まれと言えば染まれるし、技量の優れたヴォーカリストだから、これを歌えと言われれば歌えるのである。
だが、赤を使いたいならば無色透明を赤に染めるのではなく、最初から赤を使えばいいのであって、いくつかの曲で、「この歌を坂本真綾が歌う必然」が欠落している。
それらはスキマスイッチの楽曲であり、スネオヘアーの楽曲であって、もちろんそれらもシンガー坂本真綾は「上手に」歌えるのだが、単に上手に歌うだけならそれはカラオケだ。プロフェッショナルのアーティストの作品と言えるだろうか。
今回、坂本真綾は「敢えて」そのあたりのことを考えていないように思う。考えすぎた結果こうなってしまったのかも知れない。敢えてごちゃまぜの、敢えて自分を「声」として消費してみせることが、今までとは違う、何か新しい別の道につながるかも知れない、彼女はそう考えたのかも知れない。
そう考えたのだとして、この決断が正しかったのかどうかは、このアルバムではわからない。次のアルバムでその「新しい道」が何らかの形で目に見えなければ、この決断は間違っていた、ということになる。
私は残念ながらそうなる可能性が高いと思う。人は決して自分自身からは逃れられないのだから。
坂本真綾をデビューから見続けてきて15年、アーティストとしてこういう時期も必要なのかも知れない。