地球で最後のふたり プレミアム・エディション [DVD]
ペンエーグ・ラッタナルアーンの「6シックスティナイン9」「わすれな歌」に次ぐ日本公開3作目。前作「わすれな歌」のとても寓話的で、次から次に展開する物語の面白さと違い、本作はとても淡々と(魅惑的ともいえる)美しい映像と共にストーリーが進みます。
もちろんこの映画が人によってはジワジワと、まるで三年殺しの様に効いてきて頭から離れなくさせてしまうのは、ドイルの美しい撮影だけではなく、素晴らしいプロダクションデザイン(特にノイの家)、最高に気持ちいいファラムポーン・リディム名義、フォトステッカーマシーン演奏によるテーマ曲「GRAVITY」(04年、青山でのSOI MUSIC FESTIVALでは、フォトステッカーマシーンはかなりイメージの違う、熱い演奏でした)など魅力的な部分が多いからだと思います。
ノイがトリップして本が舞ったり(CGIの使い方がさりげない)、「わすれな歌」でおなじみのトイレへのこだわりなど笑える場面があったり、また「部屋にある死体」が再び登場したりと、監督としての技量、作家としての面白さなどもあって、浅野主演の次回作「INVISIBLE WAVES」への期待も膨らみます。
色んな解釈が可能なエンディングも含めて、タイのモワーッとした空気を思い出したい時につい通して見てしまう、(映画史的傑作とは言わないまでも)私にとっての「ライフタイムベスト」の一本なので、映画好きというよりも仲のいい友達にだけ「見ろよ」と(さりげなさを装って)言うことにしています。
座右の日本
1973年生バンコクまれのタイ人現代作家が書いた日本についてのエッセイ集。バンコクに住む日本人青年を主人公にした、浅野忠信主演でタイ人監督による映画『地球で最後のふたり』(2003)の原案を起草し、脚本を担当している人だといえば、だいたいどういう人物なのか想像できるのではないだろうか。
「タイが保護者であれば、日本は恋人だ」と広言する著者の視点は、タイ人のものであって西洋人のものではない。しかし、高校時代から大学時代にかけてという、もっとも多感な6年間をニューヨークで過ごした著者は、英語は堪能だが、日本語の読み書きはできないのが残念でならないようだ。
英語をつうじて西洋人の目に映る日本と、タイ語をつうじてタイ人の目に映る日本のいずれにも熟知しているこの作家がみる日本は、サブカルチャーからハイカルチャーまで実に幅広い。日本を恋人として、全体として捉えたいという思いがそのまま反映しているのであろう。日本に魅せられた人なのである。
「西洋人の目」とは、いわゆる「オリエンタリズム」のプリズムをいったん通過した日本であり、龍安寺の石庭や高野山といった、伝統的で、精神的な日本である。後者の「タイ人の目」とは、著者と同世代以下のタイ人がものごころついてからドップリと浸かってきた日本のマンガでありアニメをつうじたものであり、また日本映画をつうじて同世代以下の一般のタイ人には親しい世界である。
この両者が作家のなかで同居し、両立することで、あくまでも同時代人とて、等身大の日本をみる視点ができあがっているようなのだ。著者は冗談めかしてアニメ「一休さん」の世界というが(・・このアニメもタイで人気がある)、深い精神性を示した日本と「かわいい」が支配するこども的な日本。明るい側面と暗い側面。これらすべてがあわさってこそ日本であり、それがまた著者には限りなく魅力的に映るのだ。
この本に収められたエッセイは、日本人が読んでもあまり違和感の感じないだけでなく、むしろ日本人があまり意識していない側面をみているのが面白く感じられる。しかも、単純に自文化であるタイと異文化である日本を比較しているのではない、さらに米国という比較軸が加わることによる、三点測量的な視点に面白さがあるのだ。もしかするとこの視点は、英語はできるがタイ語があまりできない日本人が、タイ文化をみる視点に共通するものがあるのかもしれない。
西洋人が書いた日本論は読んでも、アジア人が書いた日本論を読む機会があまりない人にはぜひすすめたい、「エキゾチックではない日本」のポートレート集である。
地球で最後のふたり
タイの現代文学の代表的作家の小説です。
この本の独特な語感を通じて作者の世界に浸りました。
この作品は静かな乾いた世界です。
日常に孤独を感じる青年と、出会う女性。
孤独な者同士の何かを探そうとする数日を描いた物語です。
最後の言葉に物語の全てを垣間見た気がしました。