テヘランでロリータを読む
著者は米ジョンズ・ホプキンス大学教授。母国イランに暮らした時代に、ひそかに有志の女子学生たちとともに「退廃的」西洋文学と取り組んだ読書会の日々を綴ったノンフィクションです。
時代は1979年のイスラム革命からイラン・イラク戦争を経て90年代半ば過ぎまで。宗教が政治と生活の隅々にいきわたり、著者のような女性たちにとっては特に息苦しく、理不尽な思いを強いられる毎日が綴られていて、500頁近い本書を読み進む私の心も、著者たちとともに果てることのない閉塞感をひしひしと味わうことになりました。
天下泰平の世に暮らす日本人の私が読んだ「ロリータ」や「ギャッツビー」が、厳格な宗教国家に生きる彼女たちによって読み解かれる過程は、大変興味深いものです。
実のところ、上記二つの英語文学を、私はさほど大きな感銘を受けることなく、遠い異国の著名な書物という以上の意味では読むことはなかったのですが、著者たちの読み解きは大きく異なり、自らの暮らしの中に解消しながらの読書作業となっています。
例えば「ロリータ」の語り手ハンバートを彼女たちは、「他者を自己の意識の産物としか見ない」男として読み、女性を身勝手な幻想の産物としてしか見られない革命後のイラン(男性)社会と重ねあわせて断じるのです。
無論、書の読み方は千種万様。事実、何人かの男子学生たちがこれら西洋文学を反革命的であると難じる様子も本書には登場します。また全体主義社会に生きる人々と、自由主義に生きる人々の受容体(レセプター)にも差はあるでしょう。本書に描かれる「読み」が唯一絶対のものではありません。
それでも書物を自己の血と肉にしていく姿勢には大いに学ぶものがあります。
「小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ深く吸って。それを忘れないで」(156頁)。
学生たちに語りかける著者のこの言葉がとても印象深い書です。