白洲次郎 (コロナ・ブックス)
とても不思議な人物の本?(写真集?)です。しかし小市民の私にはあまりに現実ばなれしている話が多く、正直大人用のメルヘンと言った感じでした。写真や背景は昭和初期それ以前の物が多いらしくノスタルジックで見ていてどこかほっとします。レトロな感じの世界が好きな人にはお勧めです。
ポスト消費社会のゆくえ (文春新書)
本書は、西武セゾングループのトップであった堤清二/辻井喬と、
同じくセゾンの社史の編纂にも携わりその組織と歴史にも明るい
社会学者/フェミニストの上野千鶴子の対談本だ。
タイトルには『ポスト消費社会のゆくえ』とあり、その「ポスト」と「ゆ
くえ」の言葉から現在から未来の方向に向けて語っている内容な
のかという印象を受けるが、読後の感想としてはむしろ、今までの
「消費社会」と辻井氏が構築し崩壊させたセゾン王国のその栄枯
盛衰を懐古するという内容と言える。50年代から70年代、70年代
から80年代、そして90年代以降、2008年現在というように時代を
区分し、上野氏が辻井氏に当時の状況を質問(詰問?)するといっ
た形式で進行する。
特にバブル以後の失敗など、徹底的にグループの失敗を上野が
追究し、また辻井も真摯に応えているところなど、今時の“当たり
障りない対談本”には終わっていない。
封建的な父への反逆心から清二氏が乗り込んだのが西武グルー
プであり、以後彼がそこから文化を発信していったというのは興味
深いが、それ以上にそんなそうはなりたくなかったはずの父の似姿
になってしまい、結果組織の危機的状況になるまでそれを把握でき
なかったというのは、やはり血は争えぬということだろうか。
また「汚い街」になり果てる前の渋谷にて、西武とパルコが繰り広げ
ていてた、先進的な方向に消費者を導いていくための啓蒙的な広告
の実践が、バブル前にはすでに失効していたというところなど、高貴
な理想は頓挫もまた早い、ということか?
あいにくこの本は、具体的な現状の閉塞を打開する方法は教えてくれ
ないがしかし、セゾンの歴史と70年代に花開く消費社会の一様を垣間
見れるという意味において、価値ある対談本だ。ところで、そんな辻井
さんの生み出したもので今もっとも輝いて見えるのが例の「KY(価格
安く)」の西友だというのは、歴史の皮肉だろうか。
叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録
おのれのドロッとした部分を出さないのは、辻井さんの芸風だから仕方がない。その業(ごう)こそ辻井喬なのである。
この本に登場する政界、財界、文壇の人物の名前を、ホリエモン世代の経営者はほとんど知るまい。そんな、過去のホンモノのひとびとの「味わい」を玩味できるのがこの書物の価値であり、辻井さんという文筆家の存在理由であろう。
面白かった。なかんずく、池田勇人、大平正芳、宮沢喜一という宏池会人脈のひとびとの描き方に味わいを感じた。
ゴールデン☆ベスト 大塚博堂 シングルス
はっきり言って、男から見てもお友達になろうとは思わない風貌である。歌はロック調バンバンでも不思議ではない。でも、彼が歌うと、人生、愛、恋が最大限の美しさを発揮する。今の若い人にじっくり聞かせたい名曲集。
父の肖像〈下〉 (新潮文庫)
「問題は登場する人物がどれくらい肉体を持った存在として客観的に描かれているか」。
主人公・恭次が妹の小説を判定するに際して持ち出したこの基準に従って本書を
判定するならば、およそ失格もいいところである。しかし、あえてそのタブーを意図的に
侵犯するがゆえにこそ、この小説は感動的なものとなる。
本書において、恭次は戸籍上の母とも育ての母とも異なる産みの母を持ち、しかし彼は
その影をおぼろに知るばかり。仏門に入った才気溢れる歌人であり、さらに彼女の母は
父・次郎にとってのいわばファム・ファタール――であるらしい。
こうして「共生不可能な男女の間に生れたのかもしれない」由来定かならぬ恭次は、
「私は私だという事実だけが頼れる現実なのだと思えば思うほど、その自分が不確かな
存在に思えてくる」。下巻においてはいわば恭次の「自分探し」が図られる。
いみじくも彼は告白する、「父の伝記を書く作業が一面で若い頃の自分の姿を映し出す
ようになる事に途中から気が付いた」と。母が「肉体を持」たぬ「不確かな存在」なればこそ、
いっそう「私」は「父」へと向かわざるを得ない。「私」なる人格を引き受け、この「伝記」の
書き手を演じる恭次は、「確かな存在」とも見える父の内面に時に深く潜り込むことによって、
明白にその境界を見失う。「父の肖像」を模索することは「私」を確かめることであり、同時に
父をも「不確かな存在」にすること、「客観」の垣根を束の間消すこと、「不確か」な両者の
部分的和解をもたらすものとなる。
こうして恭次‐次郎の関係を描き出すことで、辻井(堤清二と呼ぶべきか)もまた父への
融和の匂いを漂わせ、しかし同時に突き放す(本書の結びは全き赦しを与えたと読むには
あまりに厳しいものである、たとえそこに三島由紀夫『絹と明察』を思わせるような、前近代的
家父長制の終焉と近代型家族制度に対する次郎の不適合が意識されているのだとしても。
奇しくもその小説の舞台は琵琶湖畔、次郎もその郷里を滋賀に持つ)。その限りで、本書は
私小説でありつつも、私小説を越える。恭次なる「私」を描き恭次を越えて、辻井なる「私」が
書いて辻井を越える。「私」を越えて、父‐子なる磁場の愛憎と葛藤を強烈に映し出す。
次郎が一貫してアンビバレントな存在として描かれるように、彼への恭次の感情もまた、
極めて両極端な相を持つ。常ならぬその振れ幅ゆえにこそ、思いが生々しく刺さる。