イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
新約聖書に示されたイエス・キリストという生き様は、立場によってあるいはイデオロギーによってさまざまに解釈されてきた。著者は、カトリック信者という枠組みで医師としての医学的な見地も含め、自分の言葉でイエスの生きざまを伝えようとしている。釜ヶ崎に住みながら「貧しい人々」のための新約聖書(福音書、使徒行伝など)を翻訳し続けている本田神父と同じように、自分の言葉で新約聖書を訳すという試みは、大切な作業である。ただ、ひとつ気になるのはフランシスコ会訳やバルバロ訳、あるいは新共同訳とは異なって「病人の癒し」「物狂いにつかれた人の癒し」について、医師としての見解を示している。この点はもう少し踏み込んでいただきたいと願っている。
ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書
この「ガリラヤのイェシュー」を購入したのは、医師であり訳者であられる山浦玄嗣先生のインタビューをラジオで聞いたのがキッカケであった。先生の次の一言が今も心に残る「・・・誰も信じてくれないが幼少のころ私はイエスに出会った・・・」。これは神秘的な体験というより、先生の魂しい(生きることの根源に関わる心の深いところ)での出会いと言うべきものです。私はこの「ガリラヤのイェシュー」を読んでいく中で、その様なイエスとの出会いがあったからこそ出来た9年に渡る翻訳作業であると感じている。つまり、山浦先生にとってはそれ程までにイエスが素晴らしい方である、と言ってもよいと思う。
それともう一つ書き添えておきたいことがある。それはクリスチャンである山浦先生自身が繰り返しおっしゃっていたことであるが「教会で用いられている日本語聖書は難しい、何を言ってるのかサッパリ分らない」だから気仙(世間)の人達に分る聖書を・・・、と言っておられた点である。私も同感である、35年牧師として生きてきた私にとってもその指摘はよく分る。その意味でこの「ガリラヤのイェシュー」は実に分りやすく、人間味あふれる名訳と言えよう。確かにかなりの意訳も随所にある(名詞を動詞に置き換えている)。当然様々な意見もある。しかし不思議なのは私にとってはこれほどイエスが身近に感じた訳も少ない。
牧師という仕事柄、新約聖書が書かれたギリシャ語原典をひも解く。なぜなら極力聖書を自己流に読み込まないように気を付けているからである。しかし、山浦訳の四福音書は実にイエスの温もり、取り巻く弟子たちや人々の人間クッササが見事に映し出されている。日本聖書協会の聖書と共にこの山浦訳4福音書「ガリラヤのイェシュー」もぜひ比較しながら読んでいただきたいと思う。