どこかで聴いたクラシック クラシック・ベスト101
クラッシックに最近興味を持ち始めていますが、知らない曲はすぐ眠くなってしまうような段階です。このような状況でこのCDを購入し聞きましたが、ほとんど聞いたことがある名曲であり、とても興味深く聞くことができました。ちょっとした各曲のエピソードもかかれており、それを読むのも薀蓄がふえたような気分となりよかったと思います。
プラトーン [Blu-ray]
1986年のアカデミー賞4部門制覇(作品賞、監督賞、編集賞、音響賞)した名作がBlu-rayで蘇ったのが今作です。1980年前後に作られたベトナム戦争物(地獄の黙示録など)はどちらかというと舞台をベトナム戦争に置いただけでその戦争の是非を問うという内容ではなかったかと思いますが、今作では実際にベトナム戦争の現場で実体験をしているオリヴァー・ストーン監督がその体験をもとに脚本を書き、映画化出来る時期まで待っていたというだけあって、戦争の狂気を真正面から描いた作品になっています。アメリカが正義とする戦争映画は多々ありますが、この作品ではアメリカの正義が崩れていることを描いたという点でも斬新的だったかと思います。主人公クリスが体験する軍内部の対立や味方殺しなどは、よりリアリズムを持って戦争の愚かさを描いているように思います。
なお、すでにアメリカではこの作品のBlu-rayが先にリリースされていますが、画質・音質は25年前の映画ということを考えてもまずまずの出来ではないかと思います。アメリカ盤も実は日本のBlu-rayプレイヤーで再生すると日本語字幕・吹き替え音声が再生できる共通版なのですが、日本盤もかなり安いので輸入盤を購入する意味は余り無いかもしれません。ただし、アメリカ盤では収録されている監督と軍事アドバイザーのオーディオ・コメンタリーが日本盤では再生できないのでその点は注意です。プレイヤーの設定を英語に変更する必要があるでしょう。(もちろんその際には日本語字幕等は表示されなくなるのですが)
ワルキューレの騎行(地獄の黙示録)~映画のなかのクラシック
「ワルキューレの騎行」を聴きたくて購入しました。
ワーグナー好きなんですが、お店にあんまり置いてないんですよ。癒しクラシック全盛のせいでしょうか?
どれも耳慣れたクラシックだけあって、じっくり浸るにふさわしい!
作曲者が自分の気持ちを前面に出てて、わかり易いのです。
これを聴きながら作業をすると、地の底から何かが湧いてきて元気が出るのですが…私だけ?
岩山を登っていくイメージをお探しの方はどうぞ(^o^)丿
饗宴 (新潮文庫 (フ-8-2))
ソクラテス(プラトン)の説く愛について要約すると、「愛とは善きものを求め、尚且つその善きものが永遠に自分のものになることを目的とする」ということになる。
愛が善きものを求めるというのは、エロース(愛の神)が愛される対象の方ではなく、むしろ愛する者であるとして考えることを要求する。誰かに愛されるのはやぶさかでない。それは善きものとして認められることに喜びを覚えるからである。他方、誰かを愛するのは切なさを伴う。それは自己所有していない善きものを希求するからである。だが、愛の神はこの「愛する」方にのみ属しているのであり、だからこそ愛する者に愛は存在するものの、ただ愛されるだけの者に愛は存在しないのである。
善きものが永遠に自分のものになるには、古いものから新しいものが生み出され、それからまたさらに新しいものへと継承されていくことで実現される。このことは、子孫を残すといった肉体面に限らず、偉大な思想や徳といった知慮の徳を残すといった精神面にまで広げられるのであるが、「プラトニック・ラヴ」という言葉があるように、そういった精神的愛こそソクラテス(プラトン)の目指す究極の愛なのである。けれども、だからといって肉体的愛が決して否定されていないことに注意したい。ソクラテス(プラトン)は精神的愛へ発展するための入り口として肉体的愛の必要性を謳っていて、まず肉体を愛し、そこから出発して階段を上がるように精神的愛へと上昇していき、そして辿り着く先にこそ究極の美、つまりイデアがあると説いているのだ。
いつのまにか「プラトニック・ラヴ」という言葉が、肉体と切り離された、純粋な精神的愛としてステレオタイプ化されているが、実際には肉体と連続する精神的な愛を指しているのである。
ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)
有名なソークラテースの「無知の知」が『ソークラテースの弁明』では死の恐怖に対するアンチテーゼとして説かれるのだが、そのとき我々はハッとさせられないわけにはいかない。なぜなら普通誰もが死を恐れるだろう。ところが死について知っている者は誰もいないのであり、ゆえに死を恐れるのは知らないことを知っていると思うこと、つまり知恵がないのに知恵があると思うことにほかならない。一見、知らないことを知るという何気ないことのように思われなくもない「無知の知」であるが、誰もが抱く死の恐怖こそ無知だと暴露されることによって、その考え方の真の意義が見出されるのである。
ソークラテースの言葉として「悪法も又法なり」は有名だが、『クリトーン』ではそのことが説明される。ところでその前提にあるのは、害悪や不正そのものはいかなる場合においてもなすべからざることであり、それゆえ仕返しに害悪や不正を行うことも許されないという考えである。我々は害悪や不正を受け不快な気持ちになると、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」という同害報復を支持してしまいがちだが、そのようなときこそ、この訓戒を思い出したい。
本書では『パイドーン』が上記二作の後に置かれるが、作風がそのまま連続しないことに注意したい。『パイドーン』は中期作品であり、イデア論が展開される。さらに、舞台設定も異なっていて、ソークラテースと誰かとの対話で構成された上記二作に対し、ソークラテースと誰かとの対話を聴いた人物が他の人物に伝えるという入れ子構造になっている。また、興味深いことに、『ソークラテースの弁明』では登場する作者プラトーンが、『パイドーン』では病気という理由で登場しない。これらのことは、『パイドーン』のソークラテースが「プラトーンのソークラテース」であることを示しているのである。